日本に美容という言葉が浸透し始めたのは大正時代末期から昭和初期ぐらいでしょうか。

今では当たり前ですが、その時代に美容という仕事を表舞台に出した先人たちがいます。
山野美容専門学校を創設した山野愛子さん、ハリウッド美容専門学校を創設したメイ牛山さんが有名ですね。
今回は山野愛子さんのお話。

それまでの美容は髪結いという職で、とても身分の低い人がやる、あまりやりたがらない仕事でした。
髪結いを家に呼んで入れる際は、玄関からは入れなかったというぐらいでしたから、ちょっと差別的な職業だったのかもしれません。

山野愛子さんは、関東大震災を下町で被災した際、東京中が瓦礫の山でこんな光景を目にしたそうです。
瓦礫の中に鏡があり、そこを通る女性がちょっと立ち止まって、鏡で髪型や服装を気にしていたとのこと。

この光景を見て、「これからの女性に必要なものは美容だ」と決心し、美容を学び、美容所(美容室)を立ち上げ、現在の山野グループの礎を作りました。

しかし、美容の時代だとは言いながらも現実は相当大変だったようです。
今とは違って、ノウハウもあまりない中で、設備もほとんどありませんから、ちょっと想像し難いぐらいの苦労はされていたようです。
特に、女性が社会進出するなんて時代ではなかったので、The不屈の精神だったようです。

戦前にはパーマが流行り、当時はパーマの機械は外国産で、それを研究し、国産のパーマ機を開発したのが夫である治一さん。
このパーマ機が爆発的に売れ、それを販売した先に教えていくという成功のスパイラルに乗ります。

時代は太平洋戦争に突入し、パーマは敵国のものとして、禁止されていきます。
しかし、女性達はパーマがしたいと山野愛子さんのもとへ沢山やってきたそうです。

この時も「いかなる状況であっても女性の美に対する気持ち」が揺るぎないものと確信したに違いありません。

戦後は復興の波に乗り、美容というものを命を懸けて伝えていきました。
美容師も学びをということで、現在の美容学校や美容師免許の整備に携わったり、さらには美容師の向上を目指し、短期大学の創設もしました。

86歳で生涯を閉じましたが、その鉄人ともいえるぐらいのバイタリティーや伝説となっていて、山野愛子さんのお弟子さんたち、またさらにそのお弟子さんたちが全国で活躍しています。

著書「愛チャンはいつも本日誕生 (人間の記録)」のタイトルとなっている通り、毎朝目が覚めた瞬間、「今日は愛ちゃんの誕生日!!」と元気よく言っていたようです。
今日、新しい自分は生まれたのだから、昨日までの悔しかったこと辛かったことはもう振り返らず前に進もう。という意志だったようです。
伝説とはそういうところから始まるのですね。

山野愛子―愛チャンはいつも本日誕生 (人間の記録)

※トップ画像は美容情報新聞BOCC No.18号から借用